重要なのが『通訳』という言葉です。
この場合の『通訳』とは、どういう存在なのでしょうか?
英語ができない私は、通訳をとおして、
イギリス人の言いたいことを理解したりします。
では、イギリスの歴史に対しては、通訳は必要はないでしょうか? なるほど、日本語で書かれたイギリス史の本はたくさんあります。イギリス史を背景にした劇映画もありますし、日本語で書かれたシークスピアの本も、たいていの本屋で手に入れることが出来ます。通訳なしに勉強できそうな気がします。けれど、それは英語の通訳がいらないだけで、英国史の通訳がいらないというわけではないのです。
本屋で買える英国史の本は、無意味乾燥な難しい文字がならんでいて、少しも英国史が頭に入りません。たとえ入ったつもりでいても、苦痛とともに頭に入れていたり、勘違いして理解していたり、すぐに忘れてしまっていたりするものです。そうなると英国史の通訳が必要ではないかと思えてきます。英国史にかぎりません、北軽井沢の歴史だって、浅間高原の自然についてだって、嬬恋村の文化についてだって、通訳が必要な気がするのです。
ここで誤解してほしいのは、この通訳とは、ガイドとは全く違うということです。ガイドは通訳ではないのです。嬬恋村の自然についてガイドしてくれる人が、必ずしも嬬恋村の自然を通訳してくれるとはかぎらないということです。むしろガイドさんは通訳してくれないのが普通です。
「この植物はなんていう名前ですか?」
と質問するとガイドさんは
「スミレです」
と答えてはくれますが、決してスミレについて通訳してくれるわけではありません。名前は教えてくれても、その植物の生態に関する知識を披露してくれても通訳してくれるわけではありません。
もちろんスミレが人間の言葉を話すわけはありませんから、通訳をするといっても、スミレ語を通訳するわけではありません。そうではなくて、スミレという植物が、どんなふうに生きていて、どんなふうに私たちと関わっているかを通訳し、私たちの人生観さえも変えてしまう。それがインタープリテーション・プログラムなのですね。
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