ブルーベリー 旅に出たい人へ
  風のひとりごと

手紙に思うこと

 絵葉書に思うことを発表してから。多くの方から「あれは本当の話ですか?」とか、「私はあの記事を読んで絵葉書について認識をあらためました」という便りを頂きました。中には、「私はあの記事を読んで人生観が変わりました」という人もいました。私は「どう変わったの?」と尋ねると「大切なものを(絵葉書を)自分自身で一人占めしてはいけないんだと思いました」と答えてくれました。

 与えあうという事は大切な事です。大切なものならなおさらです。綺麗な絵葉書を与えあう。手紙を与えあう。写真を与えあう。旅先で親切を与えあう。優しい心遣いを与えあう。愛情と思いやりを与えあう。
 でも、この「与えあう」という事が最近あまりみられなくなってきました。そのかわりに「与えあう」事をせずに「もらおう」とばかりする人が増えてきています。「もらいっぱなし」の人、「もらう一方」の人が、とても増えてきています。
 こんな事を言いますと、ジジくさくなりますが、若い人たちが与えあう事をしない、もしくは知らないのは、子供の頃からもらう一方の生活をしていたからではないかと思います。
 我々若い世代は、常にもらう一方でした。親から、先生から、大人から、旅先で会った親切な人から、そして社会から、地方自治体から、国家から。私たちは豊かな日本で、豊かな親の愛情に育まれ、豊かな社会性度に守られ、豊かな生活を享受し続けてきた結果、与えるという大切な事を学ぶ機会を失ってしまったような気がします。その結果、とても大切なものを失ってしまったような気がしてなりません。

 絵葉書に自分の思いを託した圭一君は「とても大切なもの」を失っていませんでした。だから恵子さんの心を射止めたと言えます。では「とても大切なもの」とは何の事なのでしょうか?

 YHで住所交換をする。
 よく見られる光景です。
 そして手紙を送る。
 それもよくある光景です。

 しかし手紙のやりとりというものは、長くは続かないものです。ましては旅先でちょっと知り合っただけの仲です。世代も、生まれてきた環境も、住んでる所も、生きてる世界も違います。でも、それなのに手紙のやりとりが続いていることが、まれにあったりします。もし、そんな事があれば、それは素晴らしい事です。

 私は電話は苦手です。もともと耳に傷害をもってるせいもありますが、電話というメディアが、なんだか軽くて好きになれないのです。
 電話をする時には単刀直入に用件を言います。直接的です。相手の目も、顔も、雰囲気も、何も見る事のできないまま、会話(用件)だけが進行していきます。確かに速くて便利で手軽ですが、そこには何の重みも感じられません。人柄も心の中も思想や考え方も見えてきません。

 人間という生き物は嘘をいう生き物です。例えば「お前なんか大嫌いだ」と言いながら「好きだ」という心を表現をする人もいれば、「好きだよ」と言って心の中で別の事を考えている人もいるからです。
 目は口ほどにものを言うと言いますが、「お前なんか大嫌いだ」と言いながら、目で「お前が世界中の誰よりも好きなんだ!」言うことだってあるのです。
 だから、相手の目を見ながら会話するのと電話の声だけで会話するのでは大きな違いがあります。もちろん相手と会って会話をしていても、相手の目を見ずに会話をしていれば、相手の心を感じずに会話していれば、電話をしているのと同じ事です。

 幸か不幸か今の世の中には、ふだんから電話をするように会話をしている人たちがとても多くなっています。人の心にふれずに会話している人が多くなっています。親友にも、恋人さえにも、会いながらにして電話をしているような会話をする人たちが多くなっています。
 電話のようなおしゃべりをし、電話のようなつきあいをし、電話のような生活を送り、電話のような人生をおくる。そんな人たちが多くなってきています。そのせいか人生を軽く考えている人たちが、最近いやに目立ってしまっています。

 私は思います。もっと人(人の目を)を見てほしい。もっと人の心を覗いてほしい。もっと人の素晴らしい所(いやな所)を知ってほしい。人間には裏と表がありますが、表だけを見るのではなく、裏もみるべきだと私は思っています。それが本当の思いやりではないかと私は思うのです。

 今の世の中、男と女が簡単にくっついたり離れたり、それこそ電話の受話器を外したり切ったりするような軽いつきあいが日常茶飯事になってしまっている事が、とても不幸に思えます。
 次々と彼氏彼女をかえていく人たちが本当の恋愛をしているのかどうか疑わしいものです。好奇心か興味本位のつきあいをしているとしか思えません。努力も思いやりもなく、電話のように手軽に結ばれたカップルが長く続くはずがありません。

 友情にしたって同じ事です。努力せず、思いやりもせず、もらう一方で与えることをしない人に親友ができるわけがありません。電話のような会話しかしない気軽な友人は、いつしか、電話のように切れてしまうのです。

 私は思います。大切な事を手軽な手段ですませてはいけないと思うのです。電話をする時のような会話では軽すぎます。相手の目を見、こちらの目を見せ、そして、相手を感じ、こちらも相手に感じさせ、貴方にとって一番大切なことを、貴方にとってとても必要な事を訴える努力が必要だと私は思うのです。それが親を、恋人を、親友を思いやる、心づかいだと思うのです。

 私は電話は苦手です。それは電話では本当の相手の姿がみえてこないからです。電話は相手を知るにはあまりに便利すぎて、あまりに安易で、あまりに軽すぎるメディアだからです。電話をするのに何も苦労はありません。
 でも、手紙を書くのは大変な労力がいります。容易な事ではありません。どんなにへたくそな文章でも一枚の便箋を埋めるのは容易な事ではありません。早い返事には、出した人の好意が感じられますし、長い手紙には出した人の誠意が感じられます。そして、なにより書いた手紙の文章には、書いた人の人柄がどうしても出てしまいます。
 実は私はいろいろな人から様々な手紙を貰いました。型どおりの返事。また会いたいという返事。そして心のこもった返事。真剣な悩みが書かれた返事。私は、いろいろな人のいろいろな一面をみる事ができました。そして電話では決して得られないものを得ることができました。それらの手紙は私にとって一生の宝物となりました。

 必死になって、私のためにだけに書いてくれた手紙は、どんなに面白い小説より、どんなに愉快な漫画より、どんなにワクワクする物語より、面白くて愉快でワクワクしました。そして私はこの気持ちをもっと皆に分けてあげたいと思いました。だから『風のたより』という活動を始めました。

 皆さん。皆さんも手紙を書いてみませんか? 親兄弟に、恩師に、友達に、恋人に、大切な人に、そして全国に散らばっている旅の仲間に・・・・。たまには電話をやめて手紙を書いてみませんか? 親しくしている人なら尚更です。
 そして電話のような会話をやめて、手紙を書くような会話をしてみませんか? 心を込めた手紙を書くような、心の込めた人と人のつきあいをしてみませんか?
 もし、この文を読んで、そんな気持ちが少しでも芽生えたのなら、『風のたより』を御利用ください。貴方の心を『風のたより』にして、みんなに伝えてみてください。『風のたより』では、貴方の『風のたより』をまっています。
【風のひとりごと】
(旧「風のたより」2号掲載文・1992)

← 前へ