ブルーベリー 旅に出たい人へ
  旅人的生活の方法

自分に対して忠実になれ

 私たちは知らず知らず旅をしています。これは防衛本能のようなものです。旅をしないと精神が参ってしまう。日常だけの世界に閉じこもっていると心が参ってしまう。だから旅をするのです。非日常の世界に入るのです。それによって自分を客観的に見つめ直すことができるからです。

 日常の中だけにいると、自分を見失うことがあります。気づかないうちに自分が自分でなくなり、1つの歯車として、機械的に動くだけの存在のようになってしまいます。

 日常に忙殺されるうちに思考能力が低下していって、機械的な毎日をおくるだけになってしまいます。そうなると、自分の意志は消滅してしまい、機械における部品の一部として評価されるようになります。

「悪い部品だ」
「役に立たない部品だ」
「良い部品だ」

と世間にいわれては一喜一憂し、機械の部品として悩み、機械の部品として落込み、機械の部品として喜んだりします。そして自分でもわからないうちに、日常という機械装置に潰されてしまってまうのです。

 日常にゆだねる。それは非常に楽な生き方でもあります。けれど、自分自身を見失ってしまう可能性のある危険な生き方でもあります。
 気がついたら集団の中で自分の個性を殺されかけていたり、生きることの意味を見失っていたり、快楽的な世界だけにおぼれていたり、何をなすべきか忘れてしまっていたり、ヒステリーを起こしたり、ネガティブになって親や学校や会社や社会を恨んでしまっていたり、ひたすら自分を蔑んでいたりするものです。

 機械的に生きる毎日。
 日常の中に埋没する自分。

 こういう生き方は、楽で確実な生き方でありますが、ある時、気がつくと、ポッカリと心に穴があいてしまっていることに気づきます。そして無性に淋しくなることがあります。

 人間は、日常の中だけに生きることはできません。機械的な人生の中だけに生きることもできません。その方が楽なのに、そういう人生だけ送っていると必ずその反動がやってきます。

 日常は、自分自身を追い詰めます。そして追い詰められた自分は、なぜ追い詰められたのか知ることができずに悩みます。そして、宗教にたよったり、本にたよったり、友人に相談したりして解決の糸口をみつけようとしますが、日常の中から飛び出さずに解決しようとすると、なかなか解決がつきません。

 人間は旅をしないと心が病気になってしまいます。不思議なことですが、旅をしないと頭がおかしくなってしまうのです。けれど誤解してはいけないのは、旅と旅行は違うということです。旅と移動も違うということです。旅行しても移動しても、日常から脱出できるとは限りません。ここが重要なポイントとなります。

 ここで「旅」という言葉を考えてみましょう。
 旅とは何か?
 旅と旅行はどこが違うのか?

 旅行は移動をともないますが、旅は必ずしもそうではありません。そこが違います。例えば「心の旅」なら、心の放浪を意味するのであって、これは肉体の移動をともないません。また「人生の旅」なら、未知なる人生を求めることであり、これも場所の移動をしめす言葉ではありません。つまり「旅」という言葉には、きわめて漠然とした範囲の広い意味があります。

     旅>旅行>移動

 けれど旅も旅行も、ともに非日常であるという点では一緒です。違うのは移動をともなうかどうかです。例えば移動しない「旅行」というのは存在しませんが、「旅」は必ずしも移動をともないません。心の旅、地図の上の旅、人生の旅・・・・。どれも移動をともないませんが、旅であることは確かです。
 列車で移動しなくても、小さな部屋から一歩もでなくても、旅をすることは充分に可能です。非日常の中に自分を投げ出せば、それで立派に旅をしたと言えます。以上の点を整理すると以下のようになります。

旅 ・・・・非日常・・・・必ずしも移動をともなわない
旅行・・・・非日常・・・・移動をともなう
移動・・・・日常 ・・・・所用のための移動

 旅・旅行・移動。この3つを比較すると「旅」の正体が見えてきます。旅とは、日常を脱する行為であって、必ずしも電車や飛行機でどこかに出かける行為ではないのです。そのように考えると、人はいろんな旅をしていることに気が付きます。

 冒険という旅。
 心の旅。
 思索の旅。

 いろいろな旅をします。しかし、必ずしも人は旅行をするとは限りません。出無精で旅行をしない人もいます。しかし、そういう人たちも必ず旅をしているものです。心の旅。思索の旅。宗教的な旅。学問の旅。旅をしない人など存在しません。なぜならば人生は大いなる旅でもあるからです。

 そういう意味では「旅」という概念は「旅行」という言葉のもつ意味よりも広く深いものがあります。そして、非常に個人的な行為であることに気がつきます。

 日常というのは、ごく個人的な空間であり、あくまでも自分の身の回りにある身近なことを日常といいます。そこから、脱出することが旅であるならば、旅という行為は、非常に個人的な作業であるわけです。

 旅は、他人のためにするものではなく、あくまでも自分のためにする行為です。仕事のためでもないし、出世のためでもないし、名誉のためでもなければ、社会に貢献することのためでもない。そういう旅がないとは言えませんが、基本はあくまでも日常から脱出することであり個人のために行うのが基本です。そして、自分自身を見つめ直し、自分を変えることによって、世界を一変させることが旅における究極の目的でもあります。

 私は昔、世界中を旅したことがありました。その時たくさんの自称「旅の達人」という人に出会いました。彼らは会社を辞めて、アルバイトでお金を貯め、ガイドブックを片手に何カ月も世界中を放浪していた人たちなのでした。
 ところが、そういう人たちの中には、何カ国に行ったとか、どこそこに行ったとか、何ヶ月旅をしているとか、危ない目にあったとか、安い値段で旅したとか、自慢話しばかりしている人たちがいました。私は

「この人たちは、自分のために旅をしてないな」

と思い、こういう人たちは、旅の達人というより、海外旅行オタクなんだと思いました。
 旅の本質というものは、会社を辞めるとか、何カ月も旅行するとかではありません。遠いとか近いとかも重要な問題ではありません。回数を誇ることも関係ありません。そういう社会の評価と関係のないところに旅というものがあります。なぜならば、日常を脱出することが旅であるからです。
 日常というものは、個人的なものです。一人一人全員違う日常を背負って生きています。ならば、旅もまた一人一人全員違ってきます。そういうものに社会の評価をあてはめたり、他人と比較する行為は意味がありません。自分にとって「旅」であるかどうかが重要だからです。これを「旅人的正直」と言いたいと思います。

 脱線しますが、私は高校三年生の時に
『知的生活の方法/渡部昇一著/講談社』
という本を読むことによって人生が一変したことがあります。その本の最初のページには、
「自分に対して忠実になれ」
と書いてありました。

 例えば夏目漱石を読んだとします。その場合、本当に面白いと思って読んだかどうかが問題だというのです。本当に面白かったならいい。けれど皆が面白いというから、無理して面白がって読むのは自分に対して忠実でないというのです。
 何故ならば、小中学生あたりでは夏目漱石は理解できないからです。それを理解できるというのなら、天才か「自分に対して忠実でない」かのどちらかです。そして、もし自分に嘘をついて夏目漱石が面白いと無理に思い込んでる場合は、一生夏目漱石を理解できないまま終わるといいます。

 知的生活に他人のモノサシはいりません。夏目漱石が面白いか面白くないかは、自分のモノサシで決めなければ、本物の知的生活はできません。これを渡部昇一教授は、
「知的正直になれ」
と言っています。
本当に自分にとって面白いものを読みなさい。面白くないなら正直に面白くないと言いなさい。今は面白くなくとも将来は面白いと思える日がくる時もあるのだから、そうなる時期を待ちなさい。決して他人のモノサシを気にしてはいけない。それが知的正直であると言うのです。

 他人にあわせる。学校にあわせる。社会にあわせる。会社にあわせる。多くの人々は、世間という外側のモノサシに合せて生きる訓練を行ないます。だから高校生までの私には、世の中には、そういうモノサシしか存在しないと信じ込んでいました。けれど『知的生活の方法』という本を読んだ時、そういう認識がガラリと変りました。
世間という外側のモノサシに自分を合わせるよりも、自分のモノサシにあわせて生きる。つまり知的正直に生きることにしようと思いました。

 ただ誤解されて困るので念を押しておきますが、私も渡部昇一教授にしても「世間にあわせる」という行為を否定してるわけではありません。むしろ大いに必要であると考えています。しかし、それは自分の外面に限った話であって、自分の内面まで世間にあわせる必要はないということです。

社会のルールは遵守し、他人を不愉快にしたり、エゴを押しつけたりはしない。けれど自分の内面には、自分自身のモノサシがあって微動だにしない。それが自分に対して忠実になれということであり知的正直に生きるということです。

 他人の評判や、テストの点や、世間の噂話や、会社の成績などを全く気にしない。そういうことは気にしないけれど、自分自身に対して正直であるかどうかは気にする。しかし社会のルールは遵守する。それが自分のモノサシで生きるということです。

 脱線が長くなりましたが、実はこの「自分のモノサシで生きる」ということが「旅人的生活の方法」にとって重要になってきます。日常を脱出するということは、世間というモノサシから離れ、それに代るものが必要になってきます。それを求めることが旅における一つの目的にもなります。けれど、それを求めるためには「知的正直」ならぬ「旅人的正直」にならなければなりません。では、旅人的正直とは、どういう意味でしょうか?
【風のひとりごと】
(月刊『風のたより』25号掲載文・2000)

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