ブルーベリー 旅に出たい人へ 旅人的生活の方法 幽体離脱のススメ
前回の連載では、図書館に行ってみると、旅のタイトルのついた本が人生のコーナーにあり、旅行のタイトルのついた本が娯楽やレジャーのコーナーにあることも指摘し、旅 =人生を連想させる 旅行=娯楽を連想させる という傾向があることを述べています。そして、松尾芭蕉がライフワークの『奥の細道』で、すぎゆく歳月も旅人である。つまり、人間の一生こそ旅であると言っている事も指摘しました。それをふまえて今回は、どうして 旅 =人生 旅行=娯楽 というイメージが存在するのかという点を少しばかり掘り下げて考えてみたいと思います。 実は、旅イコール人生というイメージは、理屈っぽく考えると、ちょっと矛盾したところがあるのです。私は以前に 旅 ・・・・非日常・・・・必ずしも移動をともなわない 旅行・・・・非日常・・・・移動をともなう 移動・・・・日常 ・・・・所用のための移動 と定義しましたが、それに『旅=人生』というイメージが加わってしまうと『非日常=人生』と言う事になって「人生とは非日常である」と言っているのに等しくなるからです。 しかし、非日常イコール人生と考えることには多少無理があります。普通の人にとっては日常というものは、人生の大半を占めてしまうからです。だから非日常だけが人生であるという考えは、どうしても成り立ちません。もちろん、非日常というものも人生の一部には違いありませんが、正しくは、 人生=日常+非日常 であるはずです。けれど私たちは、 人生=旅(非日常) というイメージを何の抵抗もなく受入れてしまいます。そして旅と人生をダブらせたりします。しかしそれは、前にも述べましたが、ちょっと矛盾しているイメージなのです。しかし、私たちは、全然矛盾しているとは思いません。これは、いったい、どういうことなのでしょうか? 私たちは、日常世界にいる時に、自分自身を振り返ったりしません。日常世界の中では、知らず知らずのうちに自分を見失ってしまいます。そして1つの歯車として、機械的に動くだけの存在のようになってしまいます。 日常に忙殺されるうちに思考能力が低下していって、機械的な毎日をおくるだけになり、機械における部品の一部として評価されるようになります。 「悪い部品だ」 「役に立たない部品だ」 「良い部品だ」 と世間にいわれては一喜一憂し、機械の部品として悩み、機械の部品として落込み、機械の部品として喜んだりします。そして自分でもわからないうちに、日常という機械装置に潰されてしまい、人生を振り返るゆとりを失ってしまうのです。 しかし、日常という現実から、幽体離脱して旅の世界、つまり非日常世界に入ると、人生を振り返ることができます。私たちは、旅をしている時、つまり非日常の世界にいる時に一番人生を振り返りやすくなっています。 日常世界に埋没している時は、なかなか人生を考えるゆとりはありませんが、幽体離脱のように人生から離脱して、外から自分の人生を眺めている時は、人生を考えるチャンスがたくさんでてきます。つまり旅している時こそ、人生を見つめ直すチャンスがたくさんあるのです。だからこそ私たちの中には 「人生イコール旅」 というイメージが存在しているのかもしれません。 「え? そうなんですか? 私は旅先で人生を見つめ直したことなどないですよ。私は旅では楽しむことしかしません。ただ、ひたすら楽しいだけです」 「ほう・・・・。では、あなたの旅というのは、どちらかと言うと世間一般でイメージされている『旅行』というものにあたりますね」 「旅行?」 「世間一般では、旅行を娯楽とイメージし、旅を人生とイメージするケースが多いんです」 「娯楽的な要素が多いと何かまずいのですか?」 「そんなことはありません」 「旅行は、旅より劣る行為なんですか?」 「そんなこともありません」 この連載では、酸素が善玉で二酸化炭素が悪玉といった優劣をつける発想は捨てています。そういった煩悩を捨てて、いわば幽体離脱して、外から旅や旅行について思索し、それによって、旅人的生活というものを考えてみています。 旅行と旅。この2つの定義は、すでに行なっています。旅行は移動をともないますが、旅は必ずしも移動をともないません。集合論で言えば、旅と旅行の関係は、 『旅行⊂旅』 という数式に現わされるだけのことであって、両者の違いというものは、それだけのことになります。 しかし、 旅行には娯楽のイメージがつき、 旅には人生のイメージがつきまとうのです。 それがために、旅人の中には、旅行者蔑視の発想があったりして、旅人立派論と旅行者堕落論が見え隠れしたりします。筆者にもそういう考えがないとは言い切れません。 逆に言うと旅行者の中にも旅人コンプレックスというものが、あったりもします。というのも、旅と旅行の違いを定義したりすると、強く反発する人がいたりするからです。 しかし、冷静に考えてみてください。 旅と旅行の関係は集合論であって、 対立概念ではありません。 『旅行⊂旅』 という集合論の中では、旅行は旅という集合の中にある一形態にしかすぎません。だから旅人であるか旅行者であるかという点で、コンプレックスを感じる必要は何もないのです。 私は、身分論や人種論を言ってるわけではありません。ようするに、ある人が旅人的な存在になることもあるし、旅行者的な存在になる場合もある。それだれのことを言ってるにすぎないのです。 にもかかわらず、それに敏感に反応する人がいるということは、それだけ読者諸君の心の中に、日常世界のトゲトゲしい病魔が食込んでいる証拠なのかもしれません。 私が、くどいほど『旅』という概念を明確にしようとしているのは、旅人というものを解明し、旅人的生活の方法を述べたいためです。旅と旅人を解明しなければ、旅人的生活というものもハッキリと見えてきません。 では、 『旅人的生活』 とは、どのような生活なのでしょうか? 誤解を恐れずに言うならば、幽体離脱できる生活のことです。 日常世界から幽体離脱し、 非日常という世界に自由に出入りし、 大空を羽ばたく鷲のように人生の大地を見下ろせる生活。 そんな生活を 『旅人的生活』 とよびたいと思っています。 そして、この連載で旅人的生活の方法を述べることによって、世間という日常的歯車の呪縛から逃れ、 「生きるとはどういうことか?」 という点をもう一度考え直してみたいのです。 だから旅行者的生活の方法ではないのです。旅人的生活の方法なのです。旅行という狭い範囲の話ではなく、旅という、必ずしも移動をともわない大きな世界の話をしたいのです。幽体離脱の話がしたいのです。 幽体離脱といってもオカルトの話ではありません。非日常世界に自由に出入りし、心豊かに生きるための方法論を論じたいのです。それによって、大勢の読者諸君に、豊かな人生体験をしてもらいたいと願って、この文を書いているのです。 私は、西暦2000年の正月元旦の『風のたより』隊のツアーで 「自殺したい」 という青年読者と徹夜で語り合ったことが、きっかけとなって、この連載を書いています。その時は、一緒にいた20人のツアー参加者とともに夜明けまで大激論になりましたが、空(むな)しさを感じたことを覚えています。それは、海を見たことがない人に、海を説明する空しさに似ています。星を見たことがない人に、星を説明する空しさにも似ていました。 幽体離脱して、自分自身を振り返ってみれば、簡単に解ることを説明したのですが、相手には幽体離脱の経験がありません。ですから、どうにもうまく伝わらないのです。 もちろん、理屈では上手に説明できますし、相手を論破することも可能でしたが、相手を論破しても、相手の悩みは消えませんから何の解決にもなりません。 悩みの根本を解決するには、自分で解決してもらうしかないのですが、その方法を説明するには、一晩徹夜で話合うくらいの時間では、短すぎるのです。そこで、この連載を書くつもりになったわけですが、次号では、幽体離脱の方法を具体的に紹介してみたいと思います。 【風のひとりごと】 (月刊『風のたより』29号掲載文・2000) |
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