ブルーベリー 旅に出たい人へ 旅人的生活の方法 幽体離脱の方法
今回は旅人的生活の方法論、つまり幽体離脱の方法論について具体的に御話ししてみたいと思います。しかし、その前に言っておくと幽体離脱の方法(旅人的生活の方法)は、星の数ほどある。生きている人間の数ほどあるということです。これを仏教にたとえてみましょう。仏教には、無数のお経があります。キリスト教には1種類の聖書しかないのに、どうして仏教の場合は無数のかくも多くのお経があるのでしょうか? 理由は簡単です。 お経には、仏(ほとけ)になる方法が書いてあるからです。仏教の目的は仏になることです。逆にいうと仏になる方法は無数にあり、その方法論の違いの数だけ、お経があります。 しかし聖書は違います。あれは神との契約書だから聖書が何種類もあってはおかしいのです。けれど、お経は何種類あってもよい。仏になる方法論は無数にあるからです。 げんにお釈迦様は、人によって教えかたをかえていました。そのために、お釈迦様の語録を集めると矛盾することだらけです。力を抜けと言ってみたり、力を入れろと言ってみたり・・・・。しかし、それはそれでよいのです。お釈迦様の発言は方法論なのですから、1人1人違う方法論があってもよいのです。 そういう意味で幽体離脱の方法も無限にあってもよい。いや、なければおかしい。方法論が一つしかなかったら、それこそ日常という歯車に組み込まれてしまっているのと一緒になってしまう。旅人的生活というのは、非日常的な世界に飛び出すことですから、そういうことでは困るわけです。というわけで、これから述べる方法論は、星の数ほどある方法論の中の一つであると考えてください。それでは、本題に入りましょう。最初に 「手段と目的」 というテーマで御話ししたいと思います。 初めて旅をする時、最初は旅に目的をもっています。例えば、 「北海道のラベンダー畑を見たい」とか、 「土地の美味しい料理を食べたい」 とか・・・・です。そういう明確な目的があって旅にでる。誰でも、そういった形から旅というものをスタートしてるものです。そして、目的を達成するために、もっとも合理的な手段をとろうとするのが普通です。 例えば、旅行代理店にでかけていって、パンフレットを山ほど抱えて帰ってくる。旅行雑誌で、すこしでも安いパックをさがしたりする。あくまでも目的が第一であって、手段は二の次になってしまう。というより、手段について深く考えることさえなく、ただなんとなく旅行代理店の店の前にあるパンフレットに近寄ってしまうものです。 ところが・・・・です。旅がやみつきになって何度も旅に出かけていると、不思議なことに、この手段と目的が逆転してしまったりするのです。〜を見たいとか、〜を食べたいという目的よりも、それに至る手段の方が大切になってしまう。どんどん本末転倒していくのです。 以下は私の体験ですから、皆さんには当てはまらないかもしれません。最初にお断りしておきます。 最初は、私も北海道のラベンダー畑を見たかったし、土地の美味しい料理を食べたかった。しかし、何度も旅にでるうちに、そういった目的よりも、それにいたる手段の方が、私にとっては大切になってきました。 最初は、美味しい土地の料理が食べられればよかった。つまり自分だけが満足できればよかったのです。けれど、何年も旅しているうちに、美味しい料理を食べるだけでは満足できなくなってしまいました。 そこで私は、その料理がどんなに美味しかったかを自慢したくなった。自分の満足を他人に訴えたくなったのです。だからユースホステルなどで旅の初心者をつかまえては、・・・・の料理がいかに美味しいかを宣伝したりしました。 しかし、それも直ぐに空しくなってしまい、ストレートに御馳走するようになりました。そして「美味しい」と喜ぶ顔をみて幸福感を感じるようになったのです。 こんな話しをすると「そんな奴は特殊だ」と思われるかもしれませんが、とにかく、こんな気持ちになった私は、ある日突然、子供のころを思い出して急に胸が苦しくなってきたのです。 あれは私が、10歳くらいの時のことです。私は、お小遣いでケーキを買ってきました。目の前には3つ年下の弟がうらめしそうに見ていました。 しかし、一生懸命に小遣いを貯金して買った自分のケーキなのです。どうして何の努力もしてない弟のためにケーキをわけなければならないいでしょう? そう思った私は、弟にあげずに、1人でケーキを全部食べてしまったのです。 そんな何でもない記憶がよみがえってきて、私は無性に涙がボロボロと出て止まらなくなった。あの時食べたケーキほど不味いケーキはなかった。それに比べると、いま、知り合ったばかりの旅人と一緒に食べる食事の美味しさといったらどうだろう? そんなせつない思いが胸からこみあげてきてしょうがなかった。 ケーキを食べる。 これは目的です。 この目的に私は、子供ながらに一生懸命になった。家の手伝いもしたし、おつかいに言ってお駄賃をもらったりもした。弟は、そういう努力はしてなかった。だから、そのケーキを1人で食べる権利が自分にはあると子供心に思ったし、それは今でもそのように思っています。 しかし、そう思ってても1人で食べてしまったケーキの味は、美味しくなかった。せっかく努力して目的を達したにもかかわらず私は、あまり幸せにはなれなかった。そして、その時の記憶を何年も心の奥にしまいこんで、旅先の北海道で思い出すまで、思い出すことはなかった・・・・。 手段と目的。 どちらが大切かと問われれば、目的であるはずです。しかし、目的に到達する手段を間違えると、せっかく目的を達成しても気分が悪くなったりする。 私は、うらめしそうに見ている弟に、ほんの一口でよいからケーキを食べさせればよかった。すればそのケーキは、10倍にも20倍にも美味しく感じたかもしれない。ほんの一口分を我慢するだけで、ものすごい幸福感を味わえたのかもしれないのです。 それを思うと本当に残念でなりません。こうやって、この原稿を書いているときでさえ、涙がポタポタとたれて止まらなくなってしまっていることを考えると、ほんの一口のケーキが私の人生を変えてしまったとも言えます。 美しい景色をみる。美味しい食事を食べる。私は、ただ、それだけのために1年も世界中に旅にでかけました。そして、実際にそれだけで満足したものです。1〜2週間程度の旅行で終わってしまっていたら、死ぬまで、そういう満足しか味わえなかったかもしれません。 しかし、私は1年以上の放浪の旅を続けていました。1年も放浪していれば、美しい景色も美味しい食事にも鈍感になってきます。美しい景色をみれた。美味しい食事を食べられた。目的を達成できた。にもかかわらず何かむなしいのです。そうなると目的など、どうでもよくなってくる。そして、目的を見失って、自分の進むべき道を見失って、自分がものすごい孤独の底に陥っていることに気がつきます。 すると、どういう訳か、頭に浮かんでくるのは、潜在意識の奥底にしまってあるドロドロとした記憶。または、なにげない日常生活をしていた頃の自分だったりします。私は、ケーキをひとり占めしたことを思い出したしました。 長い間、旅にでてると、景色や料理には感動しにくくなるかわりに、ひとさまの親切に激しく感動したりします。お金がなくて困っているときに、見ず知らずの旅人に御馳走してもらうと、さらに身にしみます。そんな時、感激を相手に伝えると相手は、このように答えたものです。 「私は、一緒に楽しい食事をしたいだけだよ」 「でも・・・・」 「別に御馳走を並べているわけではないし、食事ったって、私たちが毎晩食べている普通の食事だ。それが1人分増えただけのことじゃないか。そんなにかしこまってたら食事がまずくなる。さあ、たべな。俺は、一緒に楽しめれば、それでいいんだから」 「・・・・」 「ほら、何してるんだ。スープが冷めちまうぞ」 私は涙をこらえながら、スープをすすりました。そして子供の頃にケーキをひとり占めにしてしまったことを思い出していました。そして、ほんとうに美味しい食事を味わっていました。 たいしたメニューではなかったのですが、どんな豪華レストランで食べるフルコースよりも美味しかったことを私は一生忘れることができません。そして、そういった心のこもった料理に出会うたびに、ひとり占めにしてしまったケーキを思い出すのです。 【風のひとりごと】 (月刊『風のたより』30号掲載文・2000) |
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