ブルーベリー 旅に出たい人へ
  旅人的生活の方法

手段と目的

 目的を達成する。それをもっとも合理的に展開する理論が兵法です。孫子にクラウゼッツの戦争論。戦略論に戦術論。これらいろいろな兵法の特色は、限定された単純明確な目的を設定し、その目的に集中することにあります。
 もっと身近な例をあげれば、将棋なんかもそうです。将棋には勝ち負けしかありません。つまり勝つためならば何をやってもよい。いや、全力をあげて勝ちにいかなければならない。だから、そのための手段を徹底的に考えます。そして、目的(勝利)のためなら(ルール内で)手段を選びません。
 さらに身近な例をあげてみれば、企業活動や受験戦争なんかもそうです。企業は利益目標のために、もっとも合理的な手段をとろうとするだろうし、受験生だって合格のためなら予備校通いだって何だってするでしょう。

 手段は目的を達成するためにあります。目的のためなら、ルール内でどんな手段でもとる。それが社会の常識です。それが証拠に、ほとんどの受験生は、どんなに勉強が嫌いでも、志望校合格のためなら我慢して勉強しています。
 片思いに悩んでいる人が、自分を変えてまで無理に相手にあわせようとする光景も見たことがあります。これも目的のために手段を尽くしている光景であり、頭の中は
「恋人になりたい」
という目的でギラギラしています。

「欲しがりません、勝つまでは!」

という言葉もありました。これは戦争中の言葉ですが、今現在の私たちの社会は、この言葉どおりの社会になっています。みんな自分自身を変えてまで何かを手に入れようとしています。そして、そのために、あらゆる手段が考えられ、実行されようとしています。私たちは、多かれ少なかれ、そういう世界の中に生きています。
 そして、そういう世界の中で、必死に努力して勝った人間はプライドと優越感を手に入れるし、勝てなかった人間は、挫折と劣等感に悩むことになります。だから私たちの悩みというのは、非常に単純な構造になっていまして、すべて
「勝ち負け」
というシンプルなものが悩みの原因となっています。イジメや受験や恋愛や家庭問題も、みんな勝ち負けの構造が原因となっていることには変わりはありません。

 当然の事ながら
「ケーキを食べたい」
という子供の頃の私の悩みも勝ち負けに関係しています。この場合は「ケーキを食べたい」が目標であり、それを何とか達成した場合に「勝ち」ということになります。
 私は、その目標のために貯金したり、おつかいをしたり、あらゆる手段を使って、ケーキを買える金額の御小遣いを貯めて、ケーキを食べるという目標に勝利しました。しかし、後味は良くなかったことは、前にも述べました。

 どうして後味がよくなかったのか?
 それは人生の中には、勝ち負け以外の、
 もう一つの意義があったことを忘れていたからです。
 それは何か?

 目的を達成する。それは素晴らしいことです。しかし、目的というものは、長い人生をキャベツの千切りのように切って分解してしまった、小さな断片のようなものです。そんな断片を食べてみたって少しも美味しくない。
 キャベツの千切りは、山のように盛られてこそキャベツの千切りの味がします。そして、ドレッシングかソースをかけられ、トンカツなんかがのせられてはじめて美味しく食べられるのであって、1個1個の千切りの断片など、美味しくもなんともないし、味だってろくにわからないでしょう。

 目的というものは、無限に広がる人間の人生において流れる、一瞬の流れ星のようなものです。光っては消え光っては消えていく。しかし、人間の心は、この流れ星の輝きに過剰に反応し、流れ星があたかも人生そのもののように感じてしまったりする。

 目的に溺れ、勝ち負け溺れ、
 キャベツの千切りの断片のような小さな出来事に、
 あたかも全人生が左右されるほどに、
 うろたえ、悲しみ、自殺しようとしたりします。

 なぜでしょう?

 なぜ、単なる流れ星などに右往左往してしまい、不動の帝座と言うべき北極星を見ようとしないのか? 北極星こそは、昔から航海における道しるべとなっていたのに・・・・。

 脱線します。兵法についてです。兵法の理論(将棋の理論も)は、シンプルで単純明快な構造になっています。勝つための理論であって、よけいなものは一切ついていません。それは、どういう理論かと言いますと、勝つためには目標を一つにしぼる事が大切だというのです。
 例えば、敵がA・B・Cの3ヶ所にいたとします。そしてその3ヶ所と平等に戦うのは最低の戦術です。逆に言うならば、AならAだけに集中して戦うのが最高の戦術です。Aだけを相手にするならば、当面戦う相手は3分の1ですみ、相手より有利に戦えるからです。
 このように勝つためには目標を1つにしぼる事が重要になります。これは受験勉強なんかにも言えます。受験科目にない勉強をせずに受験科目の勉強に集中した方が有利にきまっています。会社経営だって一緒です。あれもこれも手をだすよりも、1つに集中して製品開発した方が有利になることは常識です。
 旅だってそうです。奈良の大仏を見にいくのなら、さっさと切符を買って電車にのって出かけた方が有利です。図書館に行って調べものをしたりして回り道することもないし、自転車ででかける必要もない。奈良に行く前にネパールに出かけることも余分なことです。勝つためには、目標をシンプルにした方がよいのです。

 しかし、もし、勝つ必要がなかったとしたら・・・・?
 勝つという発想から自由になれたとしたら・・・・?

 たとえば、受験勉強中に読書に熱中したとします。この場合、読書に熱中すればするほど、勝つという目的(志望校)から遠ざかります。しかし、学生の頃の読書には、勝ち負けを超越した価値があるかもしれません。それにひょっとしたら、読書していくうちに、人生という航海を導いてくれる北極星のような本に出会えるかもしれないのです。そして、その北極星は、勝ち負けを超越した何ものかである可能性が高いのです。

 たとえば、期末試験が迫っていて、試験の範囲がわかっているとしとます。勝ち負けにこだわるならば、試験範囲だけを勉強するべきであり、試験範囲外を勉強する必要はありません。しかし、そのような発想を身に付けてしまうと、試験に出ない部分の勉強というものがポッカリと抜けてしまい、試験に出てこない大切なものを学ぶチャンスを失ってしまう可能性が高いのです。

 そう考えてみると、勝ち負けにこだわることの危険性が見えてきます。あまり勝ち負けにこだわると、人生という航海を導いてくれる北極星のような本に出会えるチャンスを失ってしまうかもしれない。目標をシンプルにしすぎて、大切なものを失ってしまう可能性がでてきます。

 ・・・・と、ここまで書いておいて長い脱線を終わります。
 旅の話しに戻します。
 最初の書き出しに戻りたいと思います。

 初めて旅をする時、最初は、旅に目的をもっています。例えば、北海道のラベンダー畑を見たいとか、土地の美味しい料理を食べたいとか・・・・。そういう明確な目的があって旅にでる。誰でも、そういった形から旅というものをスタートし、目的を達成するために、もっとも合理的な手段をとろうとします。
 例えば、旅行代理店にでかけていって、パンフレットを山ほど抱えて帰ってくる。旅行雑誌で、すこしでも安いパックをさがしたりする。あくまでも目的が第一です。目的を達成することが一番大切なのであって、勝ち負けの発想で動くなら当然の行動であり、世間の常識でもあります。
 ところが、旅がやみつきになって何度も旅に出かけていると、不思議なことに、この手段と目的が逆転してしまったりす。〜を見たいとか、〜を食べたいという目的よりも、それに至る手段の方が大切になってしまう。どんどん本末転倒していってしまう。そして、手段を楽しむ方にウエイトが大きくなってきてしまう。目的なんかどうでもよくなってくる。つまり勝ち負けの論理から外れてしまうのです。

 なぜでしょう?
 (私の場合)長い旅を続けていると、
 流れ星に見飽きてしまいます。

 退屈な日常を飛び出したはずなのに、長旅によって、いつのまにか旅自体が退屈な日常になってしまう。そうなると、旅の目的なんかどうでもよくなるのです。どんな巨大遺跡を見学しても、どんなに有名な絵画を見ても感動しなくなる。流れ星のような、誰もが見たがるものに飽き飽きしてきます。
 その代わり、自分が何かに飢えてきているのに気がつきます。もっと本質的なものに飢えてくる。ケーキを食べたいという小さな欲求よりも、もっと別のものが欲しくなってくる。巨大遺跡を見学したいという欲求よりも、有名な絵画を見たいという欲求よりも、もっと奥の深いものに飢えてくる。
 それは、誰もが見たがる流れ星なんかではなく、北極星のような自分の航海にとって必要な道しるべだったりします。長旅という非日常世界に身を置くことによって、自分にとって本当に大切なものが見えてきたわけです。そして、そういう時こそ、自分が日常という世界から幽体離脱している可能性が高かったりする。

 これは、あくまでも私自身の体験であって、誰もが同じ体験をするとはかぎりませんが、旅人的生活をおくりたい。そんなことを思っている人は、一度は勝ち負けの論理から、つまり目的を達成しようとする論理から、離れてみるとよいかもしれません。
 わざと寄り道をしたり、わざと道草を食ったりする方が、より旅人的生活に近いかもしれません。目的より手段の方にこだわってみることも大切なのかもしれません。そのほうが北極星を見つけるチャンスが多くなるのかもしれないのです。
【風のひとりごと】
(月刊『風のたより』30号掲載文・2000)

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