ブルーベリー 旅に出たい人へ
  旅人的生活の方法

自立

 前回までは、仕事とプライベートについてお話ししましたが、今回は、両親や友人からプライベートを守る方法についてふれてみたいと思います。

 旅をするにあたって、やっかいな事は、旅に理解のない肉親や友人とのつきあいをどうするかです。旅人的生活をエンジョイするためには避けてとおれない課題です。
 他人と違って、肉親や親身になってくれる友人は、非常にやっかいな存在です。あふれんばかりの愛情と友情によって、旅人になることを阻止してくるからです。そしてその圧力は、会社がかけてくる圧力よりも大きかったりします。私たちは、それらに、どのように対処するべきなのでしょうか?

 むかし『キタキツネ物語』という映画がありました。親キツネが一生懸命、子キツネを育てる物語です。その映画のクライマックスは、キツネの親子の別れのシーンです。
 それは、ある日突然やってきます。なんの理由もなく、親キツネが子キツネに噛みついてくるのです。子キツネは、今まで優しかった親キツネが、突然おそってくるのにうろたえ、オロオロしながら逃げていきます。こうして子キツネが大人になっていくという物語です。

 残酷なキタキツネの儀式ですが、この儀式は、人間社会にもあるような気がします。社会に適応できてない子供や、大人になりきれてない子供に対して、肉親や親しい友人などが、うるさく噛みついてくるからです。
 彼らは、子供たちが自立できるようになるまで噛みついてくる。あふれんばかりの愛情で、キタキツネの母親のように噛みついてくる。「一人前になれ」と言ってくる。そして、非日常的な旅人の世界と縁を切るように強要してくる。こういう事態に、オロオロする旅人は多いと思います。

 世の中には「旅」といった、非日常的世界を目のかたきにする人が少なからずいます。もし、そんな人が身近にいたとしても他人であるかぎり実害は少ないものです。しかし、肉親や親友となると話が違ってきます。かなりの実害を被ってしまいます。
 会社を辞めて、世界一周をしたいと思ったりしますと、肉親たちは、キタキツネのように体を張ってやめさそうとします。世界一周でなくても、20歳くらいの一人娘がバイクを買って旅をしたいと言い出したとたんに「やめろ」と言ってきたりします。涙を流しながら、やめてちょうだいとたのんだりします。このようなケースの場合、旅人としては、どのような対処をすれば良いのでしょうか?

 一番簡単な対処方法は、自立することでしょう。なにしろ相手は、キタキツネのお母さんの気分でいるわけですから、自立してみせるしかありません。

 実は「旅をすること」と「自立できてない」と言うことの間には、何の因果関係もないのですが、世間一般は、そのように見ていません。彼らは、旅人イコール自立してない人たちと見なしている場合が多いものです。ひどいのになると旅人を河原乞食ぐらいに思っている人たちもいます。だから愛情をもった御両親ですと、キタキツネの母親のように牙を出して噛みついてくるのです。

「いつまでも、そんなことしてないで働け」
「いいかげんに結婚しろ」
「はやく孫の顔を見せろ」

 余計な御世話ですが、こう言ってくる御両親たちの多くは、キタキツネのお母さんと同じで、生物的な本能でもって噛みついてきます。そういう生物的本能には、理性でもって逆らってみても、無駄というか、無意味というか、むなしいだけで、いつまでも平行線をたどることになるでしょう。
 仮に、こちらが筋道をたてた反論を用意しても、彼らは絶対に受け付けません。相手は生物的本能で迫ってきていますから、理屈や理性を受け付けません。最悪の場合は喧嘩別れとなって「親不孝」と後ろ指さされることになってしまう。
 だとしたら逆に相手の言い分をある程度は受け入れるか、逆にこちらが自立していることを証明するしかありません。キタキツネのお母さんは、自立させようとして噛みついてくるわけですから、噛みついてくる肉親には、自分が自立していることを証明するしかないわけです。

 まだまだ世の中には
『旅人=自立してない』
『旅人=フラフラしている』
というイメージが蔓延しています。

 しかし、本当は、旅をすればするほど自立していくのであって、旅をしない方が自立から遠ざかっていくものなのです。そのへんを勘違いされるから悲劇が生まれます。

 旅をしなければ、どうしても日常という歯車に組み込まれてしまいます。すると、どうしても自立から遠ざかり、歯車の噛み合わせの中でしか生きていけなくなります。そして、あげくのはてには、自分で自分を苦しめていったり、イジメにあって自殺してしまったり、会社やローンの奴隷になってしまったりします。

 自立というと、親元から離れるとか、自分で働いて稼ぐくらいにしか考えてない人が多いかもしれませんが、本当の意味での自立とは、会社にべったりせず、親親族にもべったりせず、学歴や地位や身分の呪縛から解き放たれ、見栄や外聞に影響されず、坂本龍馬のように自由に生きること。つまり自分自身に自信を持って生きる。自分に責任をもって生きることを自立というのです。一言でいえば自助論(スマイルズ著)にある、

『天は自らを助けるものを助ける』

の言葉のなかに『自立』という言葉がもっている秘密がある。自分で自分を助けることこそ、本当の意味で自立するということであって、旅をすることによって、ますます磨きがかかる性質のものだったりします。
 そして、それは、日常に没頭してしまって、歯車として生きてしまっては、決して手に入り難いものです。本人は自立しているつもりでいても、火星人あたりが火星から望遠鏡で覗いてみますと、少しも自立してなかったりする。

 しかし世間一般は、そうは考えません。自立とは
「人間を世間の歯車に組み込んでしまうことだ」
と思いこんでいる人たちばかりです。
 だから旅ばかりしてブラブラしていますと、そういう人たちに対して、一生懸命に社会の歯車に組み込もうとしてきます。それに旅人たちは反発してしまう。

 そこに悲劇が生まれます。

 歯車派の人たちにいわせれば、世の中は歯車によって成り立っているのだから立派な歯車になりなさい。立派な歯車になることが自立することだ・・・・ということになります。

 ところが、これが旅人派の方にしてみれば、「歯車なんてまっぴらごめんだ」というわけです。しかし、いくら旅人派が「歯車なんてまっぴらごめんだ」と言っても、歯車の御世話になって生きている以上、どんな理屈をつけても、歯車派を納得させることは不可能でしょう。
 旅人派の人たちは大切なものを忘れています。旅人派の人たちは、優秀な歯車派たちの活躍のおかげで生きているのに、やたらと歯車派の人たちの意見を否定したりします。だから歯車派の人たちはムキになって噛みついてきたりする。

 旅という非日常世界は、歯車という日常世界があってこそ意味があります。空腹になるから料理が美味しい。それと一緒で、日常があってこその非日常世界が生きてきます。でなければ、旅が旅でなくなってしまい、いつのまにか旅という歯車に押し流されてしまうことになる。
 旅人が日常を否定してしまったら、旅という非日常世界も泡のように消えて無くなってしまう。日常と非日常は、陰日向の関係で、陰は日向があってこそ存在できるものです。それを理解しないと、旅をしているつもりが、旅という歯車に押し流されてしまうことになります。押し流されるままで自立から遠ざかってしまいます。

 自立とは何か? それは、押し流されない自分をつくることにあります。そのためには、自分が何者であるかを確かめなければなりません。そのためには、歯車の世界から一歩退いて旅にでることによって、自分自身を見つめなおす必要があります。つまり自立するために旅が必要であり、読書が必要であり、学問が必要であり、思索が必要なわけです。 これを歯車派の人たちに理解してもらわないと、旅人派の気持ちは、なかなか伝わりません。ですから旅人派の人たちは、声を大にして叫ぶべきです。

「私は自立したい」
「本当の自分を確立したい」
「何かをつかみたい」
「そして、そのために修行にでたい」

と・・・・。もちろん、修行は旅行でなくてもいい。映画をみてもいい。音楽をきいてもいい。読書してもいい。スポーツでもレジャーでもいい。外にでて見聞を広めてもいい。スマイルズの『自助論』を読んでもいい。そして、もしそれを咎める歯車派に属する大人がいたら、声を大にして

「私は自分を見つめなおしたいのだ」

叫ぶべきでしょう。そして自立するための準備をはじめるべきです。最初は、経済的な自立をめざし、次に社会的な自立をめざし、最後には心の自立をめざし、多少のことならビクともしない、強い心をもてるように努力する。そして、

「自分は何者であるか?」
「自分が本当にやりたいことは何か?」
「どんな一生をおくりたいか?」
「何ができるのか?」

と問いかけつつ、親から、世間から、社会から、自立して生きるように心がけ、見栄や外見に惑わされたり、流行や雰囲気に流されたりしない自分を確立することを心がける。
 そのための旅であるなら、頑固な歯車派人間も、旅を否定しにくいでしょう。例えば宮本武蔵のように修行の旅をしたり、吉田松陰のようにおのれを磨くために旅に出るのであれば、歯車派の人間たちは正面きって反対しにくいはずです。
【風のひとりごと】
(月刊『風のたより』33号掲載文・2001)

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