ブルーベリー 旅に出たい人へ
  旅人的生活の方法

自分自身を支配しよう

「すべては人間が自らを、どう支配するかにかかっています。それに比べれば、その人が外部に、どう支配されるかと言う問題は、さほど重要ではありません」
【自助論/スマイルズ著より】

 スマイルズは、自分が外部に支配されるより、自分の内部が、無知やエゴイズムや悪徳に支配されることの方が、問題だと言いました。社会を批判し社会の変革を求めるよりも、素晴らしい『心』をもつことが大切だと言いました。
 つまり自立とは、外部に支配されることを問題にするのではなく、政府や、宗教や、会社や、文化慣習に支配されても、ビクともしない内面をもつことなのです。では、どうすれば自分自身を支配できるのでしょうか? 今回は、それをテーマに考えてみたいと思います。

 人間なら誰しも
「自分は何者だろうか?」
と言う疑問をもったことがあると思います。

 いったい自分は、何者なのでしょうか?
 実は、それについて明確な答えを出した人がいます。
 マーフィーの法則で有名なマーフィー博士です。

「自分とは、今、自分が考えていること、感じていることそれ自体です。 自分が幸福で心がわくわくしているような時、それがあなたなのです。自分がみじめで、不幸で、どうしょうもないと感じている時、それがあなたなのです。あなたが何かよいことを考えている時、その考えがあなたなのです。 あなたが何か悪いことを考えている時、それがあなたなのです。ですから、あなたという固定したものは、本当は何もないのです」
【マーフィー100の成功法則/大島淳(渡部昇一)著より】

 俺はダメな人間だ。
 私はエリートだ。

 現代社会は、そういう評価に一喜一憂する社会です。長く旅をしていますと、あまり意味のないことに誰でも気がついてきます。●●会社の☆☆とか、○○大学の△△という肩書は、旅の世界では、ほとんど意味をもちません。
 そこで「自分は何者だろうか?」と突き詰めて考えてみますと、マーフィー博士の言うとおり、自分とは、今、自分が考えていること、感じていることそれそのものであり、泣いていれば、泣いてることが自分であるし、怒っていれば、怒っていることが自分そのものであり、落ち込んでるとすれば、落ち込んでることそのものが自分ということになります。そこには、ダメ人間とかエリートといった固定されたものは、何もありません。固定できるほど人間は単純ではありません。

 しかし、どういうわけか、歯車に飼い慣らされた私たちは、俺はダメな人間だとか、私はエリートだとか、自分はブスだとか、自分はかっこいいとか、人間を固定してとらえてしまう傾向があります。人間を成績や肩書や外見でとらえてしまいます。つまり、社会の歯車の評価に自分をあわせてしまいます。
 自立とは、そういう外部の評価にとらわれない自分をつくることにあります。ダメな人間だとか、エリートだといった表面的な評価から超越し、本当の自分を発見することにあります。

「あなたは常に選択を迫られているのです。あなたはいつも『よいことを考え、幸わせを感じている人』なのか、『悪いことを考え、不幸と感じている人』なのか、どちらにせよ、自分で選んでいるのです。あなたは、あなたを選ぶことができます。よりよいあなた、より幸福なあなたを選ぶ原理と方法こそ、マーフィー法則があきらかにしてくれるものなのです」
【マーフィー100の成功法則/大島淳(渡部昇一)著より】

 マーフィー博士は、自分をつくっているのは、自分であると明確におっしゃっています。しかし、私たちは、その明確な事実から逃げ出したくなったりします。今の不幸は、自分のせいではないと、言い訳したくなったりします。そして、自分の境遇の不運を他に責任転換したくなります。
 けれど、そんなことはないのです。それは錯覚にすぎません。自分をつくっているのは、あきらかに自分であって、その自分とやらは、常に選択を迫られていて、そして、自分で自分の人生を選んで生きているのです。つまり、自分の人生は、自分で選ぶことができるわけです。不幸を選ぶこともできますし、幸福を選ぶこともできます。

 さて、ここで話をふりだしに戻します。
 自分とは何者でしょうか?

 自分とは、自分が考えていること、感じていることそれ自体です。 自分が喜んでいる時、それが自分です。自分がみじめだと感じている時、それが自分です。ダメ人間とか、エリートとか、ブスとか、美人という固定したものは、何も存在してません。
 つまり自分とは、他人の評価でも、社会の評価でもなく、自分自身の評価なのです。しかし私たちは、他人の言動で傷ついたり、社会の評価に一喜一憂します、まわりにふりまわされて、不当に自分を低く評価します。

 今から20年以上前、私はマグロ屋で働いたことがあります。その頃のマグロ屋の職場には、鉄拳制裁が日常茶飯事でした。失敗すれば、怒鳴られましたし、殴られもしました。でも、誰一人として、怒鳴られたり殴られたことで、傷ついて辞めていく人はいませんでした。けれど、現代において、同じことをやったら確実に、職人たちは辞めていくと言います。なぜでしょうか?

 昔に比べて、現代人は、ちょっとしたことで傷つくようになりました。神経過敏と言いますか、何でもないことに腹をたてる人が、多くなっていると言います。
 しかし、些細なことに右往左往するのは、自分自身を低く評価しているのです。ちょっとしたことで傷ついたり、不安に感じたりするのは、自分に自信のない証拠です。自信があれば、少々のことでは傷つかないからです。
 表面的評価にとらわれない自分があれば、何があってもビクともしないものです。そうでなければ、本当の意味で自立できません。他人の評価に一喜一憂するということは、他人にふりまわされているのと同じだからです。

 人は他人から傷つけられることはありません。社会の評価によって運命が決まるものでもありません。たとえ心ない人たちから、言われなき誹謗中傷を言われたとしても、それによって傷つくということは、自分で自分を傷つけているのと一緒です。本当に自信があれば、簡単には傷つかないからです。

 しかし、そのように強くなるためには、自分にとって本当の幸せを発見する必要があります。虚栄心や社会的評価と関係のない、本物の幸せをつかむ必要があります。では、本物の幸せとは、いったい、どういう幸せなのでしょうか? 私たちは、子供の頃から

「勉強しなさい。幸せになれます」
「出世しなさい。幸せになれます」
「奉仕しなさい。幸せになれます」
「祈りなさい。幸せになれます」

と聞かされてきました。しかし、長い間、旅をしてますと、これは本末転倒であることに気がつきます。
 万里の長城を見ても、フランス料理のフルコースを食べても、クイーンエリザベス号で世界一周しても、決して幸せにならないことに気がつくからです。
  幸せは、何々をしたら手に入るというものではないことは、長く旅をしたら、誰だって簡単に気がつきます。1年も放浪してたら、どんな景色を見ても無感動になりますし、どんな料理を食べても感激するということは少なくなります。自分の中から、幸福感が、どんどん減っていくことに気がつかされます。そして、何々をしたから幸せになる。何々を手に入れたから幸せになるというものでもないことを発見するのです。

 幸せというものは、自分が楽しいと感じた時にしかやってきません。自分の心の持ち方しだいで幸せがおとずれてくるのです。万里の長城を見れたから幸せになるのではなく、楽しい心で、万里の長城を見るから幸せになるのです。
 万里の長城という外的なものが、フランス料理という外的なものが幸せを運んでくるのではなく、マーフィー博士の言うように、幸せは、自分自身が「幸せ」を選択して手に入れているのであって、きわめて個人的なものだったりします。

 だから幸せになるために勉強してみたって、少しも幸せになりません。いつの間にか勉強という歯車に組み込まれてしまって、逆に不幸を呼び込んでしまいます。そうではなく、楽しく勉強するから幸せになるのです。辛い勉強というものは、決して本人を幸福にしないものです。
 また、出世したら幸せになれるという考えも、奉仕したら幸せになれる、祈ったら幸せになれるという考えも危険です。部長に昇進しても不幸な人はいますし、宝くじを当てても不幸な人はいます。だから何々を手に入れたら幸せになるという幻想は、危険な発想で、自分を社会の歯車に組み込んでしまい、自分を自立から遠ざけてしまいかねません。

 そうではなくて、楽しくてしかたないから仕事をしている。楽しくてしかたないから奉仕をしている、楽しくてしかたないから祈っている。そういう発想でないと、本物の幸福感というもは、手に入れにくいのです。
 つまり、何でも楽しんでしまう・・・・というポジティブな精神が、幸せをたぐりよせるのであって、そういう心のゆとりが、自分を自立させる原動力になり、ひいては、自分で自分を支配することにつながるのです。

 それを逆に考えてしまうところに現代の病理があります。家を建てたから幸せになる。借金を返したから幸せになる。恋人を手に入れたから幸せになる。

 〜するから幸せになるという発想は、〜をもらったから幸せになるという発想と同じで、その発想で人生をおくっていきますと、〜をもらえないから不幸だという泥沼にはまる可能性があります。もっと過激に言ってしまえば、

「幸せだから与えたくなる。不幸だからもらいたくなる」
「幸せだから自立する。不幸だから自立できない」

と言うことになります。そして、幸せだから与えたくなるということは、自分が社会にとって必要とされる人間になりたいという欲求にもつながります。つまり、人間にとって一番の幸せは、自分は必要とされているという事を確認するところにあるのかもしれないのです。
【風のひとりごと】
(月刊『風のたより』35号掲載文・2001)

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